「音楽教室での著作権料徴収の件」で感じるズレ
例の音楽教室から著作権料を徴収する件が話題になっていたわけですが、雑感を少しだけ。
法律論については多くの方が解説*1されているので、ここでは詳しくは書きません。
ネット上では「JASRACやりすぎやろ(意訳)」と叩かれているわけですが、この件で改めて感じるのは、「一般人の感覚」と「著作権法」に大きなズレがあるのだなということです。
つまり、「著作権法は一般の人が納得できる法律になっていない点がある」と。
だからこそ上記のような感情論が起こるのかなと思いました。
この「ズレ」の原因を何なのか?
まず、著作権法は、「思想又は感情を創作的に表現しているもの」である著作物について、利用者の公正な利用と権利者(著作者等)の保護を規定して、文化の発展に寄与することを目的としています。
従って、国民の誰もが著作者になり得るし、誰もが利用者にもなり得るため、利用者と権利者のバランスが大事となってきます。
にもかかわらず、著作物の利用者を大きく制限し著作者の権利を拡大するような謎理論が存在している現状があります。
その謎理論とは、
著作権法を少しでも勉強していればでてくる
「一人でも公衆」理論や
「カラオケ」法理等の規範的主体論(物理的に侵害行為を行っていないものを侵害の主体と認める理論。例:カラオケスナックでの歌唱の主体は客ではなく、カラオケスナック側*2)
といった理論(他にもいろいろあるけど)であり、
これらの過去の判例から導き出された権利者寄りの法的解釈は、異論はあるものの実務家や法学者の間では定着しているが、「一般人の感覚」からは明らかにおかしいのではないでしょうか。
しかもこれらは条文上には記載がないですし。(過去審議会で検討はされたけど)
今回の件での批判は、
JASRACというより(もちろん個人的には今回の件はやり過ぎ感がありますし、音楽でお金儲けをしているならば何でも利用料をよこせというスタンスには違和感を覚えていますが)
「ズレ」を生み出している元凶である
・JASRACの主張を認めて謎理論を展開した過去の裁判所の判断
や
・今回のJASRACの主張を認める余地が解釈上可能な現行の著作権法
に対して行うべきではないでしょうか。
そしてその上でもう一度、間接侵害規定の整備等(まぁ無理なんでしょうが)で「ズレ」を明確にしつつ、その「ズレ」を広く理解させる(著作権教育とかかな)必要があるのではないかと。
そんなことを考えながら日々もやもやしております。
*1:
主な論点としては、
著作権法第22条の「著作物を、公衆に直接見せ又は聞かせることを目的として・・・演奏する」ことに該当するかどうかという点について、
・「公衆に直接見せ又は聞かせることを目的」といえるのか
・誰が誰に向かって演奏するのか(演奏の主体は誰か)
・権利制限規定に該当するのか
・演奏権は「消尽」しているのか(島並先生のtwitterでの発言より)
以下参考となるブログ
・福井健策先生「JASRAC音楽教室問題から1週間。取材等で話したことをざっくりまとめてみる」
http://www.kottolaw.com/column/001379.html
・栗原潔先生「JASRAC vs 音楽教室:法廷で争った場合の論点を考える」
http://bylines.news.yahoo.co.jp/kuriharakiyoshi/20170206-00067411/
・同上「JASRACが音楽教室からも著作権使用料を徴収しようとする法的根拠は何か?」
http://bylines.news.yahoo.co.jp/kuriharakiyoshi/20170202-00067263/
http://benli.cocolog-nifty.com/benli/2017/02/jasrac-0677.html
同上「音楽教室でJASRAC管理楽曲は「演奏」されているのか。」
http://benli.cocolog-nifty.com/benli/2017/02/jasrac-3747.html
*2:この理論は、カラオケ装置リース会社、テレビ転送サービス、音楽(変換)ストレージサービス、ファイル共有サービス、自炊代行まで広がっている